古いものほど価値がある

古いものほど価値がある

ヴィンテージ
今年、縁あって我が家にやってきた極めて希少な車。
製造から60年経過していることもあり、勝手に「ヴィンテージ車」だと思っていましたが、よくよく考えてみると「ヴィンテージ」という言葉はそう容易く使ってはいけないルールがあることを思い出しました。
現代人は古くて価値あるものには、安易にこの言葉を使いがちですが、車でも、ワインでも、ジーンズでも、そこは厳格な区分があって、勝手にヴィンテージを名乗ることは許されない場合があるようです。
車の世界でいうと、物の本によれば英語の大権威であるオクスフォード英語辞典にはヴィンテージカーの定義として「1919年から1930年の間に作られた自動車のこと」で、もうひとつの大権威であるケンブリッジ英語辞典にも同様のことが記されているんだそうです。
つまりこれ以外を「ヴィンテージカー」と呼ぶことは許されないという意味でもあるらしいのです。
さらに、1901年から1918年までに作られた自動車はエドワーディアン、逆に1931年から1939年に作られた自動車はポスト・ヴィンテージと呼ばれる由。
ところが、近ごろは昭和の頃のケンメリとかレビンとかサバンナが人気急上昇中だそうで、自動車雑誌の中でこれらに「ヴィンテージ」と安易に呼んで紹介していることに、ある自動車デザイナー氏が憤慨していました。海外では、古いものの価値をしっかりと認識し、手をかけながら大切に保存していくという思想やジャンルがしっかりと根を張っており、それは人間の作り出した歴史へのリスペクトでしょう。
後世の人間はこれを受け継ぐ義務があり、これがひとつの文化であり文化意識として確立されているように思います。
いっぽう長く深遠な歴史を有するにもかかわらず、それを惜しげもなくバンバン打ち捨ててしまうのが日本人でしょう。
古いものは大半はガラクタ同然(実際それも少なくはないけれど)でその価値の正しい見極めをせず、目先の金銭的価値や経済効率、さらには新しい物への信仰や崇拝から、すぐに廃棄したり買い換えたりを平気で繰り返し、価値あるものを認める感性や眼力がなく、さらに市場がそれを後押しするように、金額のつかないものはガラクタであるという短絡思考です。
それはさておき、ピアノにもし時代区分がもしあるのなら、ぜひその明瞭な区分を知りたいところです。
もちろん、そういうことがピアノにあるのかどうかもわかりませんけれど。とくに知りたいのは、フォルテピアノとか並行弦の頃のことではなく、金属フレームで交差弦を持った19世紀後半からの、近代ピアノになってからの区分です。
なんとなく、勝手なイメージで自分の中で区切りになっているのは、交差弦になってから19世紀後半のころまで、次いで20世紀半ばまで、それからは1970年代ごろまでで、さらに20世紀末まで、それ以降〜という感じですが、これはあくまでもいろいろなピアノに触ってきたささやかな経験による、個人的な印象でしかありません。
冒頭の話に戻ると、モノによってそういう厳格な決まりがあるものとそうでないものがあるようなので、少なくとも車の場合はいささか厳格過ぎるようにも感じますが、ピアノの場合はざっくり言って半世紀以上経ったらヴィンテージかクラシックか…ともかく一つの区分はされていいような気はします。
そもそも、日本市場で古いピアノが売れないというのは、ピアノを車や電気製品と同様に消費財と捉えて、音や品質を真摯に検討することなく、有名メーカーの新品が最良最善とされるからで、これはメーカーの戦略でもあるとは思いますが、だとすれば世の中はそれにまんまと乗せられているということでもあります。
さらには購入者の相談相手となる先生や調律師さんなどは、非常に狭い価値観でしかものを見ることができず、ピアノは消耗品で、新しいもののほうがすべてにおいて間違いない、というステレオタイプのアドバイスしかしないことも責任重大だと思います。
よって購入者の無知や文化意識の欠如は一向に是正されることなく、ピアノの価値判断については間違いだらけのものが横行、ついでにもうひとついうなら、日本のピアノの隆盛は品質より大量生産による安価な大衆路線で、安定した製品であることをもって成し遂げられたものだから、職人の魂が作り出した楽器は影に隠れてなかなか日の目を見ないのです。
大手の最新工場のラインから流れ作業で生まれてくる優秀な工業製品という側面が強いため、ますます個々の楽器の価値を見極めて大切にするという思想が育まれなかったともいえるでしょうね。
そうはいっても、数少ない職人の魂を注ぎ込まれたような価値あるピアノまでもが廃棄処分の塵に消えたという話には胸が痛みます。
ヴィンテージといえるかどうかは別にしても、古き良きものが、正しい評価を受けられるよう願うこのごろです。

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